〜パンドラの匣より〜

パンドラの箱の話はあまりにも有名だ。

箱の中からありとあらゆるこの世の厄災が飛び出して来る場面は誰しもが聞き覚えがあるだろう。

そして最後、箱の中から出て来るものは希望であった。

この小説は太宰治の作品であるが、彼にしては珍しくめちゃくちゃポジティブ!という書評が多く見られる。でもわたし、そこまでポジティブだとも思わなかった。

まずは道場に入る前の場面。彼は病気のせいで進学が叶わず、家に置いてもらって浪人という立場をとったが、彼はそれを「地獄」と言う。

病気のこともあってままならない体調であり、しかし家族のお荷物にならぬようなんとか出来ることをと考えて畑の面倒を見るわけですよ。

わたくしごとだけど難病とか病気の人って同じようなこと思ってる人多いんじゃないかなあ。

わたしに出来ることなんてあるだろうかと思いながら見つけたことをやって元気を出すんだけど、これからどうなるのか考えると「眼前がまっくら」になるわけ。

それでも同情はよせ、と彼は友人に言うんだよね。すごく気持ちがわかるんですよ。同情して欲しいとかじゃない、でも話してないとパンクしてしまう、例えその途方も無い絶望を話すことで友人が離れていってしまったとしてもよ。

この小説って、主人公の彼が詩人の友人に手紙を出す形式でずっと続くんだけど、これはある意味現代のラインあるいはツイッターなんじゃないかと思う。一回手術すれば治る病気とは違って、絶えずこれからどうなってしまうのかについて考えなきゃならんとすると、やっぱ誰かに話してなきゃやってらんないのじゃないかな、読んでもらうためというより思考の整理のために手紙を書いてる気がした。

彼は喀血した事を親に話さず、お酒でうがいとかしちゃうのだけれど、気持ちがねえすごく分かる。でも彼は、最終的にはちゃんと話して、それで健康道場に入る。それからは健康道場(ある意味風立ちぬでいうサナトリウムのスパルタバージョンかなとも思った)での出来事を絶えずイキイキと綴った手紙を詩人の友人に出し続けるんだよね。例えば入院患者のこととか、例えば看護師に恋してる話とかさ、ふつうに青春時代の若者と同じなの。とってもイキイキしてて瑞々しい。

でもこれは完全な希望の故に紡ぎ出されていると言うわけでは決して無いと思っていて、途方も無い絶望の上に成り立つ小さな希望であろうと思う。それでもこの彼は、人間は絶望なんてできないって手紙で友人に話してるのよ。たくさんの災厄が飛び出してきても、最後には箱の中から希望が飛び出してきたでしょう、パンドラの箱はさ。それと同じでどんな絶望の淵にあろうと、人間は希望を探してしまうものだと、彼はそう言うの。途方も無い悲しみを抱えながら明るく楽しく希望を探すと言うこと、それはたしかに太宰らしくないポジティブさなのかもしれないね(分かるほど読んでないからわからないのだけども)

面白い、というか元気をくれる、というか、思いがけず良い小説に出逢えたなという気持ち。